目という感覚器官に多くを頼りながら世界を捉えている。しかしその情報は果たして正しいのだろうか。そこからこぼれ落ちてしまう何かにこそ、豊かさが潜んでいるのではないか。
私たちは普段、目という感覚器官に多くを頼りながら世界を捉えている。しかしその情報は果たして正しいのだろうか。そこからこぼれ落ちてしまう何かにこそ、豊かさが潜んでいるのではないか。本展に参加する3名の作家は、私たちが視覚を通して捉えている世界を、すなわち「見る」という行為を、それぞれの実践によってほどいていく。
森政俊は、花というイメージの操作を通して、私たちのものの見方を変える。森の作品は、一見花や植物を映した綺麗な写真に見えるが、よく見ると過度に強調された色彩や曖昧な輪郭など、加工されることにより花のイメージが抽象化されている。森が捉えるのはそこに現前する美しさではなく、手を動かすことで初めて立ち現れる色彩が持つ可能性であり、どうしようもなく紛れ込んでしまう美しさなのである。またそれは、一元的な視覚情報には収まらない「美」の可能性について、私たちに問いかける。
石山未来は、捉えどころのない存在を豊かな色彩と多様な筆致によって描き出す。画面上に描かれる奇妙な存在は、亡霊、あるいはオーラのように実体を持たないもののように見える。しかし、彼女がまなざすのは不可視の存在そのものではない。詩人のアンリ・ミショーが、ある詩集の中で存在しないはずの動物をあたかも実在するかのように描写したことに強く惹かれたと彼女は言う。石山が目を向けるのは、数多の画家が描こうとした、神的あるいは霊的な存在とは異なる。むしろ、「描く」という行為を通じて曖昧な存在へと迫ることで、そのような存在を信じてしまう人間の精神そのものへと接近する。
黒田恭章は、古来意思疎通の手段や記録媒体として機能していた(文字以前のテキストでもある)織物=言語(texere)を、糸との協働によって自らを表象するものとして織りあげる。黒田が今回展示する三つのシリーズはそれぞれ、単純化されたクチナシの色に対する私たちの認識と、実際の豊かな色相の間に存在する大きな差異を可視化する。「クチナシ色」が意味するのは一種類の色だが、本来クチナシは100種類近くもの異なる色を持つ。黒田が示唆するのは、言語が導く安易な理解への抵抗、本質主義的な態度に対する危惧、そして変化を是とする流動的な美のあり方など、作家が抱く繊細かつ鋭利な批評性である。
このように、森は写真を通して「見る」ことを抽象化し、石山は「見る」ことに潜む精神へと迫り、黒田は「見る」ことに潜む暴力性を顕にする。3名の作家によってほどかれる「見る」という行為。本展を見終えたあと、私たちは何をいかにして「見る」のだろうか。
文責:岩田智哉(The5th Floorディレクター)
We rely heavily on sight toperceive the world, but how reliable is this visible information? Couldsomething richer and more profound lie in what escapes our immediateperception? The three artists in this exhibition explore what is behind the actof "seeing" through their unique artistic practices.
Masatoshi Mori alters our visualperception by manipulating floral imagery. At first glance, his works appear tobe beautiful photographs of flowers and plants. However, upon closerinspection, the exaggerated colors and blurred contours reveal a deliberateabstraction. His work doesn't capture obvious beauty but the potential ofcolors that emerge through artistic manipulation—an unexpected beauty thatslips into the process. He questions the idea of "beauty" assomething that can't be fully grasped through visual information alone.
Miki Ishiyama paints elusiveentities with vibrant colors and varied brushstrokes. Her strange figures seemghostly, lacking physical form. Rather than depicting invisible beingsthemselves, Ishiyama draws inspiration from poet Henri Michaux, who describedimaginary animals as though they were real. Instead of portraying divine orspiritual beings, she delves into the human psyche, which instinctivelybelieves in the unknown, using the act of painting to approach these ambiguousforms.
Yasuaki Kuroda uses fabric torepresent himself, weaving textiles which is historically a medium ofcommunication and record-keeping. His three series in the exhibition highlightthe gap between simplified perceptions of color of gardenia and the flower'sactual spectrum of nearly 100 different hues. Kuroda challenges the simplisticunderstanding that language often provides, warns against an essentialistattitude, and embraces beauty as something fluid and ever-changing.
Mori abstracts the act of"seeing" through photography, Ishiyama approaches the mentaldimension hidden within "seeing," and Kuroda exposes the limitationsinherent in "seeing." Through the perspectives of these artists, whatis behind our "seeing" is unfolded. After experiencing thisexhibition, how will we see, and what will we be seeing?