EXHIBITIONS

重なる、わたしと、わたしたち/ Layering, of Myself. of Ourselves

STATEMENT

「彼らの作品空間は、同時代を生きるわたしたちの日常と決して断絶されてはいない。彼らが画面の上に重ねた時間は、人生は一瞬一瞬が脈々と重なり、繋がり、長い道を走るようなものであることー私たちが生きる前提として、つい忘れてしまいがちなことーを思い出させてくれるのである」

4人の作家は、日常と作品は不可分であると話した。それは、彼らが見たもの、感じたものが原風景的に作品に反映されているだけでなく、環境的な要因、つまり日常と制作の時間が交差し合うように存在しているからという。

時間の流れは水平的であることに対して、絵画の画面は垂直に時間が重なっていく。壁に垂直に置かれた絵画に鑑賞者が正面から向き合うことで、作家が画中に入れ込んだ時間性は、鑑賞者の持つ時間と交差する。イメージは作者の時間によって空間化され、鑑賞者によって物語化され、各々に内在化されていくのである。 

   須永有は大胆な筆捌きでイメージを作り上げる。今回の作品《I’m here》が主題としているのは、手と絵筆である。松明にも見える絵筆は運動し、振り下ろされ、描かれた手はこちらに向かって振られているようにも、キャンバスの奥を探るようにもみえる。須永の多層的な筆致は、画面にストロークの痕跡を、作者の動きを、生々しく彫刻するのである。

   三井淑香の作品は、様々な物語が並行世界のように登場し、それらの断片が交錯する。日常の一瞬がコラージュされたかのような画面は、右から左へ、上から下へと視線でなぞることで多様な物語が顕れる。作家の想像力(ファンタジー)と記憶に刻まれた一瞬が暖色系の色味の中で入り混じる様は、時間の持つ諸関係を崩壊させながら、一つの画面を確立させる。私たちは、三井の作品世界を俯瞰することで、想像上の同時性という絵画の遊戯に触れるのだ。

   中嶋浩子は数学的なシステムに着想を得、制作を行う。中嶋の画面の中で理論は図形化され、連続する形として書き換えられ、画面に展開されていく。連続模様の核となるドローイングに描かれた一部分では完成された世界をもつ図形は、拡張され、色付けられることで、エラーやズレ、未知なる余白を包括していく。つまり、「完全」なものの象徴ともいえる数式は、中嶋の制作過程において、異なる言語に変換されるのだ。そして、中嶋の美的操作によって「完全さ/不完全さ」の二項対立を脱し、私たちの新たな共通言語として立ち現れるのである。

  笠井麻衣子の最新作、《Guardians of midnight》、《Guardian of twilight 》では少女と動物たちが無防備に眠る姿が描かれている。「眠り」は、ルネサンス期より物理的肉体から自己を開放する行為として好んで描かれてきた。眠りのモチーフは、一般的に鑑賞者がそれを覗き見ている構図、すなわち鑑賞者との間に生じる対象/被対象の構造を浮かび上がらせる。しかし、笠井の作品は画面の中に複数のレイヤーを重ねることにより、無防備な人物を見る鑑賞者の視線を支配者の側に追いやることをしない。描かれた者たちを「守護する存在」として重ねられた青みがかった月の光のレイヤーがモチーフと鑑賞者の間に緩衝地帯をつくる。そうして、作品見る私たちの視線の支配性それ自体をニュートラルなものと変換するのである。

  4名の作家のスタイルはそれぞれに異なる。しかし、彼らの作品空間は、同時代を生きるわたしたちの日常と決して断絶されてはいない。彼らが画面の上に重ねた時間は、人生は一瞬一瞬が脈々と重なり、繋がり、長い道を走るようなものであることー私たちが生きる前提として、つい忘れてしまいがちなことーを思い出させてくれるのである。

インディペンデント・キュレーター 加藤杏奈

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